またまた挫折

 

二十代の終わり近くに、脱サラをしました。 有り金はたいて総菜屋を始めたのです。 てんぷらを習ってきて自分で揚げて。 無理して店を始めた理由は、初めて結婚しようという相手が登場したからです。
相手が貧乏な家の 7 人兄弟の長男で、沢山の問題を抱えている人だったので、共働きを覚悟し、バスの仕事では無理だからと、店を始めたのですが、何しろ地域で信用のある私だったので、、保護司さんや警察の少年課の人や土地の名士が店探しをしてくれたり、とんとん拍子でした。 それがいけなかった。 相手は私に劣等感を持ってしまって、開店にこぎつけたときには結婚話は消滅していました。
それでも一人ぼっちで始めた店で、冬の夜中に半分凍った鯵を、1 尾 40 秒で背開きにするのも大変だったし、夏は、てんぷら鍋の前で温度を測ったら 50℃。 しかもあまり健康に自信の無い私。 目的を失ってしまっては、気力がもちません。 一年で閉めて、またしても一文無し。
すぐに紹介してくれる人があって銀座の地下鉄ストアの鼈甲屋の店員になりました。 昭和 36 年の 11 月だったと思います。 鼈甲メガネを作っている腕の良い職人さんが出している、ケース三つだけの店でした。 店番は私一人。 興味のもてる商品でしたから鼈甲の事を研究して、喋って売ったら、前年同月の 3 倍売れました。 高価な品の売れ行きがすごかったので、2 ヶ月働いて、暮れのボーナスを特別に 5,000 円頂きました。 それでぎりぎり年が越せたわけです。
製造元なので、メガネの枠が売れると、たいそう儲かるのでした。 職人の店だから修理も引き受けました。 ネックレスの修理なら私にも出来ました。 鎖が外れただけなら、ペン先(当時有ったつけペンのペン先)を差し込んで開いてはめます。 鎖の輪が足りなくなっていれば、部品を加えてはめ直します。
3 分で直せるものでも、目の前ですぐはめてしまってはお金がもらえません。 「明日までに直しておきます」と預かります。 部品が足りなくなっている場合はその料金も貰います。 部品は、店にある壊れたネックレスから外して使うのですけれどね。 色と形を合わせて直すので、仕上がりは上々、新品になったと喜ばれたものです。
大鵬が優勝したとき、相撲部屋が店主の家の近くだったので、パレードを見に来るよう招かれたりもしました。 息子さんの日本舞踊のおさらい会にも招かれてご馳走になりました。 店を任されるのは楽しいことでした。
地下鉄ストアは天井の低い地下街で、となりは骨董屋。 他には洋裁店や、ストッキングの修理屋などが有りました。 当時貴重品だった絹のストッキング(ナイロンはまだ出回っていない時代)はとても弱くて、ちょっと引っかいても縦にツーーーッとほどけてしまいます。 そのほどけた部分を一列当たり 10 円で編み直す店があったのです。
当時地下鉄は銀座線(渋谷ー浅草)だけで、やがて丸の内線が出来、地下街は様変わりし始めました。 銀座 4 丁目交差点の真下にあった地下鉄ストアも店舗を全部移転させる事になったのでした。 地下通路を今見ても、何処がどうだったのかまるで分からなくなりました。
ストアが閉店する少し前、お客から保険会社にスカウトされました。 以後会社担当の保険屋のおばちゃんを、数年ずつ子育てをはさんで 2 回、通算 10 年ぐらいやりました。 いまだに四十数年前の保険のお客さん 2 家族と仲良しです。

 

 

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