‘劇画『戦争論』の反論’について

『東大一直線』から『ゴーマニズム宣言』まで、小林よしのり氏の漫画は、明快な語り口と論理展開が魅力的で、わたしはかねてからの大ファンです。「慰安婦はなかった」、「南京大虐殺はなかった」、などと大きな議論を巻き起こした『戦争論』においても、漫画ひとつ、ペン一本で表し、誰になんと言われようとその主張を曲げない姿は、とてもかっこいいと、わたしはひそかに心酔しています。
彼をかっこいいと思う理由のひとつは、これまでの学校教育や先生、大人、政治家たちの奥歯に物の挟まったような言い方、お茶を濁したような態度に対する潔いアンチテーゼに見え、命を賭けて「こうであれ!」と示してくれたように思えたからです。
これまでの大人たちは、戦争などひとつも知らないわたしたちに、何をどう考えていいのか教えてくれず、目の前をただあいまいにしていくのみで、若者たちが具体的な生きる術を真剣に探し求めているというのに、なんら責任を示してくれていないと、わたしは不満を持っていました。
右翼が善いのか悪いか、左翼が善いのか悪いのかということは、本当のところ、わたしには全然わかりません。実際、わたしの中には、右翼の部分もあるし、左翼の部分もあります。
右翼的部分というのは、「日本が悪い」と言われると悔しいし、日本が悪いと信じ込まされていた幼少の頃の自分の自虐史観を思い起こすと、うなだれたまま自分の国に自信の持てなかったことを腹立たしく思うところです。南京大虐殺に関しても、あったことは事実であろうが(虐殺のない戦争はありえないと思うので)、ODAを引き出すための政治的な駆け引きに使われているのではないかと考えると、懐疑的な気持ちにもなります。
一方、左翼的部分というのは、平和を望み、資本主義の行き過ぎを憂い、第三世界の国々の問題が少しでも緩和されることを願っているところです。
日本を愛し、日本がよく思われるように願い、かつ世界に貢献できる国であることを誇りに思っている反面、日本資本の多国籍企業によるグローバリゼーションを批判する気持ちもあるという、矛盾し揺れる愛国心の持ち主。右も左も混然一体。それがわたしの正直な胸のうちです。
そんな私に、ストレートに問題を提起してくれるのが、中谷さんの「劇画『戦争論』の反論」です。戦争を中国の戦場で経験し、自ら捕虜の首を刎ねる現場を目撃し、南京大虐殺で殺された人の土饅頭の上も歩いた中谷さんの言葉には、私が長年意識の底で捜し求めていた説教の力があります。生きた言葉が詰まっています。右に大きく傾いていたわたしの意識を左から支え起してくれるような強さと弾力性があり、大きな味方を得たような気持ちになりました。戦争に対して、こんなにはっきりした意見を教えてくれる人は、今まで身近にいませんでした。
言論の自由が保障されている日本で、小林よしのり氏の意見と、中谷孝氏の意見が大きく火花を散らしたらいいな、と思っています。わたしのように悩みながら生きてきた戦後生まれの若輩達に、中谷孝さんは、もっともっと、これまでの戦前派が言いたくても伝えてこなかったことを、どんどん伝えてほしいと思います。
若輩達が求めていたものって、経済発展だけじゃなくって、誇りの持ち方を教えてくれる人、堂々と生きる術を伝授してくれる人ではなかったでしょうか。経済成長をもたらしてくれた先輩方は、世界の日本を目指して一生懸命がんばってくださったのでした。それを忘れたらバチがあたります。しかし正直に言うと、お金だけ与えてもらえっても、なんだか嬉しくない。がんばってくれた大人のおかげで恩恵を蒙っているのですが、なんだか、何かが、伝わってこない。
海外に出ると、特にそのことを強く感じます。質の高いさまざまな仕事を成し遂げてきた日本人は、海外で本当に注目を浴びています。その反面、どこか軽くあしらわれるというか、重みがなく影の薄い存在となっている日本人、愛嬌というのか、愛される側面、からみつくような人懐っこさがないなあ、とよく感じます。
外国人と混ざって会話をする場面に立つと、民族の存在の根拠に対する意識が弱いなあ、とどうしても感じてしまうのです。日本人はたいてい、アニミズムとか、神道とか、自然崇拝だとか、八百万の神、などそういうあいまいなもので民族をごまかし、「あいまいは日本の文化」などと言い張るようです。そのような話を聞くたびに、頭を振りたくなる恥ずかしさに襲われます。
なにしろ、外国の人々は「日本ハ神秘的デスネ」と信じ込んだ振りをしても、だれもそんなことをハナから信じません。アニミズムも自然崇拝も八百万の神も、それらを持つ民族は非常に多く、日本の専売特許ではないのですから。底意地の悪い人などは、「神秘的と言っているくせに、ハイテクで儲けまくっている奴ら」と鼻で笑っているかもしれません。
日本人の‘あいまい発言’をおもしろがる人たちが日本人に向けて戦争の話題をひとたび振ると、彼らの狙い通りに、わが日本人たちもまた、激しい動揺を見せます。一転して態度を変えてしまいます。世界など容赦しない右翼になるか、自虐史観でいい人を装う似非左翼になるか、中立を装い会話に責任を持とうとしない冷たい人になるか、のどれかにころっと変身するのです。ごまかしがきかなくなり、焦ってしまうのです。どこかで読んだ出来合いの言葉を紡いでその場を取り繕おうとするのですが、結局、相手に足元、すっかり見透かされてしまうのです。ここのところをきちんと克服しないと、本当に強い日本人になれないと思います。
本当の強さとは、議論で相手を打ち負かしたり、何かもっている力を見せるのではなく、どんな場面でどんな人に何を言われても、自分の哲学や自分の言葉で、ものの本質を語って聞かせる力を持つということだと思います。
そのような強さを持つためには、逃げ腰でない、堂々とした激論の火花が、どんどん、公の場所で、展開されていかなければなりません。そもそも自分自身が、議論を数こなし、それを越えていかなければならないのだと思います。臭いものには蓋をせず、言葉を発したものたちは、責任を持ちながら、社会のために発言し続けること――。また、人々にそれを受け入れる度量の広さ、深さも求められています。こういう過程を経て、本当の成熟した社会が育っていくのだと、信じています。
わたしも、私の後輩たちのために、責任を負うときが来たと目覚めたところです。このホームページが、その第一歩になればいいと、心から願っています。

 

山上郁海

 

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