第10話 東洋鬼になりきった男

東洋鬼 K中尉

   見事なカイゼル髭を蓄えてふんぞり返っている四十代の中隊長が、合肥の警備隊にいた。K中尉という。ここで総ての実権を握っていた。
   戦争は狂気を生むと言うが、彼ほど狂暴な男も珍しかった。

   ほかに、実戦経験も実権もない警備隊長は二十代の陸士出の大尉と、その下に中隊長が二人。

    K中尉はシェパードを2頭狂暴に訓練していた。特製の手錠と足カセを用意して、意に染まない住民を庭に転がし、兵士達の前で犬どもに噛み殺させるのを一番の楽しみとしていた。彼は地元のならず者を手下に使い、いけにえを選ばせていた。
    ならず者は「俺の言う事をきかないと、犬に噛み殺させてやるからな」と脅しては、住民から金を巻き上げていた。

    5月のある日、アルコール蒸留に熱中していた私の所へ、知り合いの合肥県の警察署長が青くなって駆け込んで来た。
「K中隊長に呼ばれた。犬に噛み殺される。助けてください!」
警察署長に圧力をかけるなどは、明かにK中隊長の越権行為だ。
「特務機関以外の日本軍組織は、中国の行政に口を出してはならない」と、軍司令部の通達が出ていたのだ。
   K中尉の噂は聞いていたので、私は警察署長に付き添い、初めてKの中隊に行った。

   K中隊長と私はさっそく怒鳴りあいになり、犬どもは早くいけにえを転がせと唸り声を上げていた。
   激昂した私が拳銃に手を掛けた瞬間、K中尉の態度は豹変した。
   私は犬を撃とうとしたのだが、彼は自分が撃たれると恐れたらしい。
「まあそう熱くなるな」となだめにかかって、警察署長を解放した。
   私の事を、何をやりだすか解からない危険分子と聞かされていたようだ。


ロシア参戦の知らせ

    6月頃、私はアルコール精製に成功した。これで自動車を使えるようになり、蒸留器を2基に増やして警備隊にも分けられる量になった。
    こうなるとK中隊長はがらりと態度を変え、「たいしたもんだ」と褒めちぎり、蒸留装置を作った職人に命じて同じものを用意し、私の真似をしてアルコールを作ったが、粗悪過ぎて自動車は動かない。蒸留には温度管理のノウハウが大切なのだが、私に訊きに来る訳にもいかないのだった。私は石鹸屋の王さんにノウハウを伝授していたが、まだ十分ではなかった。

  昭和20年8月に入ると、上司のH班長は本部に行き、私に宛てた蕪湖へ転勤の辞令を持ち帰った。彼には走りまわる部下が鬱陶しかったのだろう。
  戦況に何か変化の起きる予感があって、私は交通の便が無い事を理由に出発を1日延ばしにしていた。
   それから間もない8月9日、ソ連参戦の報が入った。最後の時が近付いた事を感じた私は、辞令を無視して蚌埠(ぱんぷう)に急いだ。
  途中でパンクを修理している時、米空軍のP-38戦闘機が上空を旋回し始めた。便乗していた中国人達が逃げようとするので、とっさにモーゼル(ドイツ製大型拳銃)を彼らに向けて制し、
「逃げたらアメリカに撃たれる。みんな飛行機に手を振れ!」と私は叫んだ。
  特務機関のトラックは上海で買ったアメリカ製のシボレーで、屋根にも日本軍の星のマークは付いていない。私は重慶軍と見分けのつかない服装をしており、住民も乗っている。
   みんなで手を振ると米軍機は低空を5回旋回し、撃たずに飛び去った。

  無事蚌埠に着き、置いていた私物を整理。福島県出身の給仕の少年達に私物を分け与え、大切な人に別れを告げ、いったん合肥ヘ戻ることにした。途中、淮南班に一泊。翌朝、
「今日、天皇陛下の放送があるそうだ」と聞いてから合肥に向け出発。
   あと30キロの所でトラックの前輪が変な音を立て始めた。
見るとボールベアリングが砕けてばらばらになっていた。
割れたボールを捨て、車軸に直接ハブを付け、グリースキャップに苦心して穴をあけて止め金にし、ナットを締めてみる。3、4時間後、ようやく走り出した。
  便乗者と荷物を荷台左後方に集め、私は右前フェンダーに乗り、窓につかまりながら右手のスパナーでナットを固定し続けつつ走った。
   しかし5~600メートル毎に止まっては、摩擦で焼けた軸に水をかけなければならなかった。とうに日は暮れて、ライトも一つ切れ、片目のまま闇の中をよたよた走り続けた。
   合肥県城5キロ手前の分哨所に着いたが、もぬけのから。
城門は、いつに無く閉まっている。事情を説明して扉を開けてもらうと、
「途中の道路には敵がいた筈だが何も無かったか?」と聞いてくる。
  片目のがたごと車を戦車と思って攻撃してこなかったのだろうか? 
   冷や汗ものだった。

   翌16日朝、警備隊本部に行ったH班長が、城外の民家の至る所に「日本が降伏したので我々が進駐する」という重慶軍のビラが貼ってあると言う。
「酷いデマを飛ばしますね」と兵隊たちは言った。
   しかし私は淮南で玉音放送の話しを聞いていたので、確実に日本は降伏したのだと思った。
   警備隊では兵隊にそのことを知らせなかったので、その日「持久戦に備えて」と畑に野菜の種を蒔きに行く兵隊もあり、私は「ご苦労さん」としか言えなかった。

無謀な逃避行

   武装解除に際しては、厳彩光参謀の名前を出して交渉すれば平穏に処理されるだろうと警備隊本部に進言したが、カイゼル髭のK中隊長が猛反対した。      この町で悪名を轟かせていた彼が武装解除で丸腰になれば、住民のリンチは免れない。その為、全員を巻き込む無謀な逃避行をする事になったのである。

   私は急いで南京政府の第1方面軍に王占林中将を訪ねた。
   別れの挨拶をし、これまでのお礼と迷惑を掛けたことをお詫びすると、
「私達の部隊がいるところでは、あなたがたが無事に帰れるよう見守りますので、警備隊長にそうお伝え下さい」と言われた。
   警備隊からは誰一人、挨拶に行っていなかった。それどころか、第1方面軍に攻撃されるだろうと恐れてさえいたのである。
   第1方面軍の立場は我々よりむしろ厳しいものだった。
「私達がこれからどうなるのか全く分かりません。でも私は自分の信念で日本に協力し、南京政府についたのですから、誰も恨みませんし、後悔もしません。ただ運命に従うのみです。」
  王中将は泰然としていた。
   後日、彼らは国民政府軍に編入され最前線に送られた。毛沢東の共産軍と激突して壊滅したと聞いている。

   翌朝、逃避行が始まった。車は使えない。南方戦線で鉄道のレールが必要だからと淮南線のレールは総て外されて、その上を自動車道路にしてあったのだが、敗戦直後に橋が落とされ車は通れなくなっていた。川に水はなかったので歩いてなら渡れる。
 その80キロの道を炎天下、2日間で九竜崗まで歩いて逃げると言う。
  鉄道の跡に作った道路は土手の上にあり、8月の太陽を遮る物などひとつもなかった。

  民間人29名は足手まといになるから誰もその引率を引き受けない。
 結局、私が世話をする事になり、皆に飲ませる水を探して走り回ったりした。
 こんなに多くの日本の民間人が城内にいたとは。その時、初めて知った。
 隊外酒保(しゅほ、飲食店)を経営したり、日本人慰安婦を置いたり、金儲けを求めて危険な所に進出した人達だろう。
 乳児を連れた夫婦がいたのには驚いた。
 未明に城門を出た時、散発的な銃撃を受けたが、戦闘にはならなかった。その時、子連れの若妻が慌てて草履(和服姿だったのである)を失くしてしまった。裸足では歩けないから兵隊達に靴下を何足も貰って重ね履きさせた。

  案の定、その日の内に兵隊が一人、熱中症で死んだ。
  合肥で武装解除を受けていたら死なずに済んだ命である。K中尉のセイなの だ。

   結局、3日かけて歩く事になった。こうなると、もう軍隊が遅れがちな民間人を顧みる事は無い。焼けつくような太陽のもと、兵士達も歩き疲れて荷物を捨てた。タバコやアルバムまで捨てるのだった。
   私は兵士が捨てたタバコを拾い集めて農家に駆け込み、棗(なつめ)と交換して民間人に食べさせた。
   草履を失くした若妻には農家で作った布靴を買って来た。
   やっとの思いで九竜崗の日本領事館員に29名を託した時は、心底ほっとした。

K中尉の最期

    部隊は蚌埠に行って武装解除を受けたが、K中尉はその前に一人で逃亡した。ここまで逃げても軍隊にいては戦犯を免れないと知ったのだろう。
    徐州まで惨めな逃避行を続けたあげく、彼は捕えられ、リンチの後さらし首になったと聞く。
    ならず者も犬たちも殺された事だろう。
    犬は飼い主を選べないから哀れだった。
    もし戦争でなかったら、K中尉はどんな人生をたどっただろうか。
    どうせろくでも無い奴であったにしても、ここまで非道にはならずに済んだだろうと思う。

 

 

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