はじめに

 

この手記は、日中戦争のさなか、戦場となった中国で「特務機関員」となった兄が中国で見聞きしたもの、感じたこと、そして今感じていることについて書いたものです。

    2005年の今年は、戦後60周年。戦争を知らない世代ばかりで贅沢になった昨今、「私たちが戦争を語らなければ」という強い思いで、私は兄に手記を残してほしいと頼みました。戦争の話を書いて、と。彼の戦争は普通の兵士とは違う、特異な体験でしたから。

    沢山の断片的な話を年月順に並べ、地図で確認しながら、昭和14年から23年までの物語にまとめ上げました。兄の記憶力はすごいと思います。話を引き出すうちに、人名が沢山出てくることには驚きました。兄妹でありながら今までまったく聴いたこともなかった話しを、この年になってはじめて聞きました。敵のスパイと親友になった話、動物達の辿った悲しい運命、兄が見た従軍慰安婦。これは若い人に読んでもらわなければと思いました。

    勢いで恋の話も書いてもらいました。彼女からの最後の手紙を兄が 母に説明したとき傍にいた私は、四角い漢字ばかりがきちんと並んだ長文を記憶しています。

 小さな写真で見た兄の恋人は美人ではなかったけれど、しっかりした顔立ちの理知的な人で した。

    兄は6年も従軍したのに軍人恩給は貰えないということも、初めて聞いて驚きました。特務機関員は『民間人』だったのです。

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  もう67年も前、昭和13年の秋。兄が18歳、私が7歳のときに突然父が病気で亡くなり、その3ヵ月後、兄は中国に渡ったのです。

    日中戦争はやがて、太平洋戦争に発展。東京大空襲のころ、我が家も一度煙に包まれました。風向きが変わったおかげで焼けなかったのは、大した幸運でした。

    むしろ、大変なのは戦後でした。ものすごいインフレのため、父の遺産も兄の預金もあっさり消滅。私は女学校をやめて働きづめとなりました。 やがて、それぞれ結婚。当時は家族を養うのが困難な時代でしたし、お互い忙しくて会う暇もない年月でした。ゆっくり話した覚えがありません。  

    そんな兄が80代になってようやく会社を辞め、時折尋ねてくれるようになりました。私が70歳で通信制中学に入学したころからです。  

    兄とは昔の話を交えた世間話をするようになりましたが、出てくる話のおもしろさに、わたしは身を乗り出すほど興奮。そこで、手記を書いて欲しいとせがんだのです。兄は思い出を便箋に何枚にもわたってしたためてくれました。タイプをしない兄に代わってわたしがパソコンに入力。ただし、色々な事件を書いてもらっても場所も順序も分かりませんでした。

 そこで兄に私の家に来てもらい、一日中パソコンの前で質問攻め。こうしてまとめていったものを片っ端から、インターネットを通して友達になったジャーナリストの山上さんに送信。山上さんに薦められてこのページを作ることになり、兄ともども大いに感謝しています。

 

中谷久子

 

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