第12話 あきれ果てた机上の空論

敗戦近い頃、南方に移動した部隊の後に内地から召集されてやってきた、年配者の多い部隊の装備の酷さには驚いたものだ。
銃を持たないものが多く、持っていても部品を簡略化したお粗末なもので、背負革は布で編んであった。飯盒の代わりに籐で編んだ籠(籠で飯は炊けないのに)、軍靴の代わりに地下足袋。銃剣のさやは竹製と言う有様。
   装備は現地にあるからと聞いて来たそうという。しかし、我々の装備は既に沿岸警備にまわされており、逆に、内地から初年兵が持ってくるものとばかり思っていた。
   それ程までに日本には物資が無くなっていたのである。

   正面の敵、重慶軍第十戦区には既にアメリカの武器援助が始まり、アメリカ軍人の顧問が携帯型ロケット砲「バズーカ」の訓練を始めてた。
   一般の日本軍兵士は知る由もなかったが、我々情報担当者には絶望的状況が解っていた。
   フィリピンを制圧した米軍の次の目標は、中国大陸の可能性が高かった。
   浙江省沿岸に上陸し米国製武器を装備した中国軍と呼応して中支(華中)を制圧、北支(華北)南支(華南)の日本軍を分断する作戦に出るであろうと予測された。
   そこで密かに聞かされていたのは、揚子江南岸の部隊を無傷のまま北に移動し、北支軍に合流させて決戦を挑む、と言うものであった。

   しかしそれは机上の空論に過ぎず、大軍を揚子江の北に渡す手段は既になかった。
   鉄道は単線の津浦線のみ、淮河鉄橋を爆撃される事は必至、外に橋はなく、埠頭もないので小船で渡るしかない。
   三日以内に大軍を移動させる事など不可能である。
   軍首脳にはこの現実が全く理解出来ていないのだった。

   津浦線より西方に位置する我々の淮南線沿線地区は「三日以上死守せよ」と言う事であった。
   淮南線のレールは既に外され南方に運んで使われていた。
(余談だが戦後、映画「戦場に架ける橋」を見て、かつての淮南線のレールが、タイメン鉄道に使われたのかも知れないと思ったものである)

   終戦がもう少し遅れたとしたらどうなっていた事だろうか。
   昭和20年8月15日に、中国大陸で命拾いをした日本人は百万人を下らないと思う。私を含めて。

 

 

 

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