悲運の熱血政治家 汪兆銘

日中戦争が膠着状態に入った昭和15年、中国国民党内で蒋介石と勢力を競っていた汪兆銘(汪精衛)がひそかに重慶を脱出し、突如南京に現れた。当時南京には、前年、日本によって作られた梁鴻志を主席とする維新政府が存在していたが、全く日本の傀儡的存在であった。
そこに突然、国民党の重鎮、汪兆銘が飛び込んできたのである。日本は途惑いながらも喜んだ。「蒋介石を相手とせず」という近衛声明以来、相手国・中国に責任が存在しないことになっていたのである。
汪は蒋介石の徹底抗日路線により国土が破壊し多くの人命が失われることを憂い、日本と妥協することによって国土を修復する道を選んだ。
汪は辛亥革命の折り、孫文の側近におり、国民党では蒋介石の先輩であった。軍を掌握し、国民党の実権を得た蒋介石にとっては目の上の瘤の存在であったろう。
戦前昭和11年、国民党中央全体会議の記念撮影中、カメラマンを装った暗殺者が汪兆銘を狙撃した。しかし犯人はその場で射殺され、依頼者が誰であるか不明であったが、蒋介石が政敵を消そうとしたという噂が広まった。
汪兆銘は一命を取り留めたが、脊椎に残った弾丸が、昭和19年に日本で死亡した原因と言われている。二人は表面上協調を装っていたが、汪兆銘は蒋介石にひと泡吹かせる機会を狙っていたのであろう。
南京に現れた汪兆銘に対し、日本は直ちに交渉を開始した。結果打ち出された路線は、南京に重慶とは別の国民党政府を作り、汪兆銘を主席とし、党是を“和平建国”とする。日本はこの政府を中華民国政府としてその主権を尊重する。これで近衛声明が生きると云うわけである。
国旗は重慶政府と同じ青天白日旗を用いたが、区別の為、上に「和平建国」と書いた黄色の三角旗をつけることにした。
然し、この新政府を承認したのは日本の同盟国ドイツとイタリア、そして満州国のみであった。
当時、日本軍占領地で公然と流通している通貨は、日本軍の「軍用手票」、略して軍票であったが、新政府は「中央儲備銀行券」、通称「儲備券」を発行した。同時に、重慶政府側の銀行券の使用を禁じたが、命令は徹底せず、通称「法幣」(ファーピィ)という重慶側の紙幣の流通を止めることはできなかった。
和平建国を国是として発足した汪政権であったが、日本政府の態度は汪兆銘の思惑通りにはならなかった。
表面上は新政権の主権を尊重すると言いながら、日本軍が実権を握り、汪兆銘は、梁鴻志同様、傀儡を脱することはできなかった。彼には,ともに重慶を脱出し腹心の同志がいた。陳公博、シャ民誼(シャは“衣”へんに“者”)、周仏海、林柏生。それぞれを国務、外交、財政、宣伝の長に任命したが、その力は日本軍占領下の地域に限られていた。
汪政権が漸く軌道に乗るかと思ったときに、日本は対米英戦に踏みきった。汪兆銘にとっては予想外の事態であったろうが、戦況の悪化とともに益々苦境に立たされることになった。
昭和19年、汪兆銘は体調を崩し、治療のため、日本に渡ったが、そのまま再起することなく死亡した。王の死後、陳公博が中心となり政権を維持したが、日本の敗戦によりシャ民誼は自殺。他は捕らえられて死刑となり、汪兆銘の理想は悲劇の終止符を打った。
南京政府発足の時、用いられた言葉が「和平建国」であったが、太平洋戦争突入後は「同生共死」がしきりに用いられた。日本と共死をともにするといいながら、ひたすら死に向かって走り続けた姿は哀れだった。
今、小泉総理はアメリカと同生共死を誓っている。日米の蜜月関係が悲劇に終わらぬ保証はない。

 

 

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