第8話 地雷に遭って、重傷を負う

 敵である第7軍の厳少佐たちと、寿県で仲良く密貿易を始めたばかりの頃、私は上司に邪魔され、合肥ヘ転勤させられてしまった。

     赴任の際に便乗した日本軍のトラックは、ガソリンがないためアセチレン車であった。カーバイトと水から出るガスで走るのだが、零下10度を下まわる中で、水蒸気が凍ってパイプを塞いでしまう。パイプを取り外し焚き火で温めて走り出しても、一時間も経たずにまた止まる。再度焚き火で溶かし、カーバイトを詰め替えて走り出しても、すぐ凍る。まともに進まない上、日も暮れてしまった。
   途中の兵舎で一泊、毛布も足りずに凍えていた。
   僅か80キロの道のりを2日がかりでようやく着任。
   敗戦まであと8ヶ月間というときだったが、その間の苦労を予感させる厳しい門出だった。

     今度の上司H班長もまた、部下が先走るのを嫌う男だった。
「あまり動き回らないでくれ」と、先ず釘をさされ、警備隊にも全く紹介してくれない。

     しかし私には人脈があった。南京政府(日本と協力している傀儡政権)の、
第1方面軍第1師長‘王占林’中将の指令部が城内にあったのだ。彼とは、以前、日本軍との連携を取るため、便衣(ベンイ:中国服)を着て行動を共にした事がある、親しい仲だった。
  早速挨拶に行き、あちこち接触して見たが、敵側の情報はまるで得られなかった。

     昭和20年3月16日、巣県の特務班に出張した帰り道、私は第1方面軍(南京政府軍)のトラックに便乗した。日本人は他にいなかった。

     三分の一ほど進んだあたりで車が地雷を踏み、二段になっている土手の一番下まで、15メートルほど車ごと転げ落ちてしまった。
   走っていた道路は、淮南鉄道のレールを外して南方戦線に運んだ跡を利用して作られていたため、鉄橋の前後などは、土手になっていたのである。

     20人以上がすし詰め状態だったので、飛び降りられた者以外は皆、重軽傷を負った。私も土手の一番下で気を失っていたそうだ。
   上まで担ぎ上げてくれた兵士の話しでは、
「道に寝かせておいたところ、急に上半身を起こして中国語で会話をはじめたので、大丈夫そうだと思ったら、いきなり倒れて今度は中段まで7メートルほど転げ落ちて行った」
    しかし私には、一切の記憶がない。

     再び担ぎ上げてもらって意識を取り戻すと、日本軍の分哨の望楼が見えた。救援を求めるには日本人でないと話しが通じない。
分哨まではなんとかたどり着き、救援を求めた。泊まって行けと言われたのを断って、肩を貸してもらい、事故現場に戻って救援が来ることを告げると、再び意識不明になった。

     気が付いたら深夜になっており、建物の中で第1方面軍の軍医が治療を始めていた。
   上唇が裂けて出血が続いていたが、ここでは縫合出来ないからと、絆創膏で固定してくれた。
   翌日、合肥城内の第1方面軍に戻った私は、王占林中将が手配した彼の部下によって、特務機関の宿舎まで送っていただくことができた。
  しかし、それから何日も動くことはできなかった。
  どのくらい経ってからだったろうか――、蚌埠の陸軍病院に着いた頃には、
唇の傷は縫合手術をせずとも、もう付いていた。
  ところが、頭と頚椎をやられていたので、1ヶ月ほどにわたる蚌埠での療養中、頭痛が長引き食欲もわかなかった。辛い日々だった。

 

 

 

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