続・はじめに

 

「71歳の女子中学生」というハンドルネームを持つ中谷久子さんと知り合ったのは、新進フォトグラファーであり、ライターとして活躍している三井昌志さんのホームページ「たびそら」の掲示板でした。2003年春のことです。誕生日を迎えられるごとに、71歳の、72歳の、73歳の、とハンドルネームを変える中谷さんは、多くの若い読者や掲示板参加者に慕われています。

  彼女の意表をつく肩書きもさることながら、ずばずばと時代を斬るものの書き方にも小気味良いものを感じたわたしは、さっそくメールを出しました。それがきっかけとなり、それ以来、ほぼ毎日メールを交わすお友達として、中谷さんは私の生活になくてはならない人になりました。

    当時、中近東で戦争が勃発しそうな、きな臭い空気が世界を覆っていたこともあり、掲示板での中谷さんの書き込みは、しばしば東京大空襲のことに触れていました。私の父もまた、深川で機銃掃射の嵐を潜り抜け、空襲で焼け出された経験を持っていたので、父と同じ年の中谷さんにはより一層、親近感を持ちました。 

  知り合ったばかりの中谷さんは、ちょうどお兄様から聞いたお話である「馬、犬、鳩たちの戦争悲話(このHPの番外編、「動物の思い出」)をネットで送信できるデータにまとめられたところだったので、さっそくそれを送っていただき、拝読。思い出をこぼさないように書き留めたことのわかるお兄様の旧仮名遣いの文章は、わたしを深く打ちました。

  中谷さんは、お兄様からお話を聞いては、ちょくちょく、メールでのおしゃべりの‘ついで’に送ってくださいました。戦争につきものの残酷さや、派手な演出などない書き方には、かえって、場面を生き生きと想像させてくれる力がありました。数行読むだけで、わたしはたちまちのめりこんでしまったのです。

  ジャーナリズムを研究する大学院を卒業して間もなかったわたしは、記者(=記録人)として出発しようと決めたばかりでしたが、中谷さんとの交流を通して知ったこの貴重な記録をきちんと残し、1人でも多くの方に伝えることは、中谷さんと知り合ってしまった者としての仕事だと直感し、このホームページを作ることを決心。その気持ちを伝えると、中谷さんもお兄様も快く引き受けてくださり、それから一歩深めた原稿のやり取りが始まりました。

  さまざまな立場の方や政治的信条をお持ちの方がいらっしゃいますので、お兄様のお話に同意できない方も中にはいらっしゃるでしょう。読み方は自由です。反対なら反対でいいのです。中谷さんご自身も、おそらく、ご自分の政治的意見や立場を強く押し付けようという意図はお持ちではないと思います。わたしもまた、特殊な政治的意見のもとで、このホームページを作成したのではありません。

  戦場となった中国で、特殊な任務についた男が何を見て、何を感じたのか――。中谷孝さんは、捕虜の首を刎ねる現場も目撃しましたし、いわゆる南京大虐殺に加担した兵士の経験談も聞きました。また、戦場では弾丸の嵐も浴び、地雷に吹き飛ばされたこともあります。このような状況の中でも、なんとか戦いを止めるにはと、若い一人の人間としてできるだけのことを考え、判断し、中国人兵士とも友情を育みます。そんな元“スパイ”が、現代社会に「戦争をやめよ」と語りかける理由は、一体何でしょうか。それを伝えたいと強く思う気持ちがこの仕事と土台になっています。しかし、本当の目的はひとつです。

  さわやかで土臭く、やさしくて切ない青年の心を伝えたい。

  84歳になられても、甘い恋の思い出をそっと心の引き出しにしまっておかれたという中谷孝さんのお人柄に、日々の生活の闘いに疲れた読者の心が、そっと癒されるかもしれません。

 

2005年1月       

 

 山上郁海 

  

 

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