第1話 南京には野犬の大群が


ひとけのない小山の上で一人、多くの野犬に囲まれた恐怖は忘れがたい。
昭和14年2月、貿易会社に就職した18歳の私は、中国に渡ることになった。
安徽省蕪湖出張所に赴任するすることになったのだ。旅の途中、南京に滞在した。
   市内を見渡そうと何気なく小山に登ったときのことだ。
   20頭近い野犬の群れに囲まれてしまった。頂上の私を睨みながら中腹を列をなしてぐるぐる廻り、だんだん迫って来る。自転車を急発進させて辛うじて逃れたが、後で会社の人に言われた。

「あれは1年2ヶ月前の南京攻略戦の時、数千人の遺体を埋めた土饅頭だ。
地元の人は鬼(幽霊)が出ると恐れて、誰も近寄らないところだ。
ああいう巨大な土饅頭が市内に幾つかあり、小さなものはたくさんある」

   鳥肌が立った。野犬達は飼い主を殺されたのだろう。墓を踏みつけて登った私を許せなかったのだと思う。

   後年、日本軍の従軍僧と親しくなった。彼は日本軍司令部の許可を取り、
腕章を着けて中国の仏教団体と一緒に2ヶ月かけて多くの土饅頭を作り、
犠牲者の遺体を葬ったと言っていた。

   また、私は、南京攻略戦の渦中にいた兵士達とも話す機会が多かった。
城壁に囲まれた大都会の逃げ道をすべてふさいだため、戦闘を終えた時点で
各部隊は自分たちの何十倍もの捕虜を抱え込んで大混乱に陥り、処置に困って虐殺に及んだようである。

   揚子江岸下関(シャークヮン)方面より突入した第16師団長中嶋中将の日記によれば、
「……始末に堪えず、捕虜にはせぬ方針なり」
と書かれている。捕虜にはせず逃がしもしない……。
   民間人と兵隊の区別がつかず、捕えた数の多さに恐怖を募らせて住民を含む多数の中国人を殺戮したのだ。100人あまりの部隊が1万人近い捕虜を任されて、捕虜に対する恐怖心のあまり川岸の潅木林に連れ出して囲み、全員焼き殺したと言う事例も、実行した兵士から聞いた。

   南京大虐殺の人数については議論のあるところだが、数はどうあれ、戦闘力を失った敵捕虜と、かなりの数の住民を殺戮したことは確かである。問題は殺戮した人数ではなく、人間を人間と思わなくなる戦争の狂気なのだ。

   南京から長江を120キロ遡って、蕪湖に着任した。
   上海から届くマッチ、タバコ、砂糖、塩、布地、上海方面に送る米などの出し入れを管理する役目に就いた。現地には日本の商人が多数入り込んでいた。
軍部の威を借りて物流を独占し、多額の利益を得ていたようである。現地の警備隊や憲兵隊の幹部達は商人から連夜酒色の饗応を受け、彼らに便宜を与えていた。
   一方、中国人を使役する際、人間扱いしない商人達も見かけた。
‘牛馬の如くこき使う’と言うが、実際にムチを振るって働かせる男までいた。
勝利した国の占領者は何をしても構わないと言う風潮があった。
   18歳の私には到底なじめない世界だった。

   近くに‘陸軍特務機関蕪湖班’という、警備隊とは別の組織があった。
   そこの矢野班長と話しをするようになったので、
「商人と軍部の癒着による不当行為が我慢出来ない」
と訴えると、
「そんな会社は辞めて特務機関に入れ」
と蚌埠(ぱんぷう)特務機関の原田大佐に推薦してくれた。
  そこで特務機関員補充募集のテストを受けたら、採用されることになった。
私は会社をわずか4カ月で辞め、特務機関員となった。不思議な組織だった。
機関長だけが軍人で、それ以外は民間人のまま。
戦死した者だけが軍属にしてもらえると言う不安定な立場。
しかし、原田機関長の人柄もあってか妙に自由な空気の組織で、
機関長の前で陸軍批判を展開しても叱られることはない。
元左翼の人間も多くいた。

 仕事は軍の裏方。行政指導、経済安定、治安維持、情報収集などが主な任務だった。機関の運転手が当直中に酒を呑みに行ってしまうので、小規模な敵襲や事件の度に、私は車の運転を頼まれ重宝がられた。
   私は、先ず第一に必要な中国語の勉強に熱中し、やがて会話に不自由しなくなった。

   こうして敗戦まで特務機関で様々な体験をすることになったのである。

 

 

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