番外編 動物の思い出

明治の建軍から敗戦までの70余年間、戦場に駆り出されたまま行方の知られず、存在も語られない命がある。馬・犬・鳩、多くの動物たちの命だ。大阪護国神社には、軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊碑があり、また、多くの軍馬を送り出した門司港近くの正蓮寺には、軍馬の碑と塚があると聞く。しかし、今、それを語る人はほとんどあるまい。
   昭和16年、戦地で手柄を立てた「一文字号」というロバが、上野動物園で余生を過ごさせるためにと送られてきた。’戦場で功績のあった軍馬の帰国’は、戦意高揚をはかる美談の主人公として、大いにもてはやされていた。もう歯がなくて人参も噛めない。名医に世界初のロバの入れ歯を作ってもらって元気になり、子供たちを乗せた馬車を引いて大人気だった。
   しかし、実は、一文字号は北京生まれであった。日本から大陸の戦場へとひとたび海を渡った動物たちが帰国したという例を私は知らない。多くの動物たちは中国大陸で死に、その記録さえほとんどないことだろう。

   日中戦争が始まって間もなく、「徴発令」が発せられた。軍が必要とする民間の物資を、所有者の意志を無視して強制的に低価格で買収する法律である。
  大陸の戦場にトラックは欠かせなかったが、軍用車輌ではまるで足りず、新車生産も追いつかないので、程度のよい民間の車輌を片っ端から強制徴発した。
  軍用色に塗り変えられた徴発車輌が列をなして、戦地に向かって行くのを見た事がある。それに付随して運転免許所有者も召集されたので、免許取得を見合わせる若者もあった。

   同時に農村部では、馬の徴発が行われた。軍隊内で飼育調教された馬も多数いたが、重要な働き手であった農耕馬や荷馬車馬が、飼い主から離れて、戦地に向かった。青年達を徴兵された上に、馬まで持って行かれる事は、農村にとってさぞ大変な負担だったろう。
 これらの馬は調教を受け、戦場で食糧、弾薬、重機関銃などの運搬や、野砲の牽引にあたった。もう騎兵隊が活躍する時代ではなかったが、幹部将校の乗用馬として、戦場の最前線を駆け回っていた。


   満州事変が始まった頃、千葉県四街道の歩兵聯隊内に『軍犬班』が発足した。そのとき頼まれて私の父は、訓練していたエアデールテリアを献納した。
 イギリス軍に倣ってエアデールテリアを採用すのか、ドイツやアメリカに倣ってシェパードにするか試行錯誤の末、頭脳のエアデールより体力のシェパードに、軍は決定したようだった。
 大陸に連れて行かれた犬たちは部隊本部の警備役に使われたが、兵隊達にはとても人気があり、かわいがられた。 ただし、日本の軍服以外の服装をつけた者には激しく吠えかかるので、中国人には、「日本軍は狼を飼っている」と恐れられていた。


『伝書鳩』も、軍の組織において大事な通信手段の役目を果たした。私が小学生だった頃、近くの練兵場に『軍鳩班』部隊が訓練に来た。トレーラー式の鳩舎の横にテントを張り、10名ぐらいが野営しながら鳩を訓練していた。近くで見ていると、「坊や、おいで」と呼ばれ、遊ばせてもらったものだ。満州事変以前の、のんびりした時代のことである。

   それらの軍用動物達がどうなったか直接見る機会は少なかった。聞かされたのは悲しい話ばかりだった。

     私の勤務した陸軍特務機関には、兵役を現地除隊した元下士官が数名いた。彼らは、南京攻略、徐州会戦、秋水渡河作戦などを経験した歴戦の兵士達で、いろいろ話をしてくれた。
  体が大きいだけに、馬は弾丸の当たる率も高く、戦死した軍馬は多かった。
その場合、たてがみを切って持ちかえり供養したと言う。

   泥濘に脚を取られた馬が、もがくうちに、どうにもならなくなって、放置せざるを得なかったと打ち明けてくれた元下士官もいた。
「置き去りにされた馬の悲しいいななきが耳に残る」と泣いていた。

「食糧が無くなり、苦労を共にした馬を食べざるを得なかった」と、戦後再会した時に話してくれた先輩もある。 彼は、敗戦直前の昭和20年になってから、悲惨な運命に翻弄された。若妻と生後2ヶ月の乳児を残して、中国で現地召集されたのだ。彼は河南省の開封から、ひとり1頭づつ馬のくつわを取り、徒歩でひと月かけて漢口に着いたところで、終戦となった。馬を食べたのはそのときのことだった。妻子を満州の妹の家に預けていたが、生きて再び会うことも叶わなかったそうだ。
   戦争がもう少し早く終っていたら、どれほどの数の人や動物が、このような悲惨な運命に遭わずに済んだことだろう。

   戦後、南京に残留したぼくは昭和20年12月、親しかった三石大尉が旧官舎にいると知り、久々に訪ねた。
   話に夢中になり気づくと夕方になっていた。
「食事をしていけ」と誘われ、敗戦以来食べたことのないご馳走を振舞われた。
   当番兵は大変料理が上手であった。

「そのソテー旨かっただろう。何の肉だと思う?」と三石大尉。
「ひな鶏ですか?」
「鳩だよ、伝書鳩。中国側は要らないと言うから、食べることにしたんだ」 
   ぼくはなんとも複雑な気持ちになったものだ。


 三石大尉の口利きで、私も中国軍に留用という形で残留した。中国陸軍総司令部に所属する日本人8名の独立機関だった。 捕虜ではなく職員として、特別待遇を受けていた。


   翌21年春、中国軍幹部が、シェパードを1頭連れて来て、言った。
「日本の軍用犬だが、一向になつかず、手におえない。引き渡すから受け取ってくれ」
   一目見て、驚いた。皮膚病で赤裸。毛はいくらも残っておらず、体中を蚤が歩きまわっていて、衰弱が激しい。
   中野学校出身のS中尉は獣医だが、一見して決断した。
「手のつけようが無い。早く安楽死させてやろう」

   犬は、それでも久々に日本語を聞いて、体をゆすって喜んでいた。
   どうやって苦しませずに安楽死させるかを相談したが、方法はひとつ。
  電気ショック。
  少々電気に詳しい私が、引きうけざるを得なかった。
   翌朝、裸電線を首と後足に巻きつけて、220ボルトの電流を流した。
   瞬時に呼吸も心臓も止まった。庭に掘った穴に葬った。哀れでならない最期だった。

   中国人に吠えかかる事を使命とされてきた軍用犬が、敗戦で中国人に引渡された。犬の運命は激変していた。わけもわからずに、苦しんだことであろう。彼は、半年あまり、たった一匹で中国と戦っていたのだ。犬たちにとって中国人は敵でしかなく、なつくわけにはいかなかった。

   あの時、たとえ命を助けたとしても、引き揚げ船に乗れない以上、日本軍に忠実すぎたこの犬が中国で生きていく道など、なかったかもしれない。
  戦争は人間だけでなく、多くの馬や犬や鳩までも、悲しい死に追いやった。
 私はこの現実を、こんな自分の体験から、思い知らされたのであった。
  戦争だけは二度と繰り返したくない。 

 

 

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