劇画『戦争論』への反論


「とんでもない本です」と友人が持ってきたのは、小林よしのり作、劇画『戦争論』だった。

「戦争反対や世界平和を叫ぶものは戦場に立つ勇気の無い臆病者だ。大東亜戦争は正義の戦いだった。特攻隊は立派だった。今の日本人も国の為に命を捨てる覚悟を持て。勝っている戦争はかっこいい」
70年前なら仕方ないが、威勢のいい言葉を並べて、21世紀の日本にこんな危険思想を宣伝されては、戦争を知らない若い世代に与える影響が恐ろしい。

私もこの本は書店で表紙を見たことがある。しかしたかが漫画だと気にも留めず開いてみなかった。今回読んでみて驚いた。自衛隊に戦争をさせたい一部の政治家が喜んで教科書にしそうな、ひどい本である。何十回も版を重ねているからよほど多くの人がこれを読んだことだろう。

すぐに石原都知事の“反支那発言”を連想した。内容が良く似ている。
「シナ人(日本で中国人を蔑視する呼び名)は残虐性の強い民族だ。自分らが自国民を大虐殺しながら日本軍のせいにしている。南京大虐殺はでっち上げだ。南京占領直後城内は平穏だった」
石原都知事は戦場を見ていない世代である。本物の戦場に身をさらした者はこんな風には絶対に思わない。
戦争とは殺戮と破壊である。敵側の人間を沢山殺すことが目標である。敵から見れば我々が敵。「殺し合い」――それが戦争。

この本は、現代社会において、戦争は最大の犯罪であることの認識を欠いている。作者は警世の書のつもりだろうが、思い込みが激しいように、わたしの目に映った。その弊害は大きいのではないかと思う。
「国際問題は武力で解決すべきだ」という思想は、前近代的だが、単純で判りやすい。だから影響が怖いのだ。

私自身の戦場体験から作者に反論したい。
著者は「シナ事変で日本軍は立派に戦った。残虐行為はしていない」という。そんなキレイ事が信じられるだろうか。古今東西歴史上残虐行為の行われない戦争など一度だってあったためしはない。そして捕虜虐待は今もイラクで問題になっている。どこの国の軍隊も戦場では異常な狂気に陥りやすいのだ。

私は中国の戦場で、兵士ではなく軍嘱託(民間人扱い)の特務機関員だった。軍隊の作戦後に治安維持や行政回復をはかる任務についていたから、その中で多くの事例をこの目で見てきた。

その一つは、昭和16年春の、第3次寿県城攻略戦での捕虜虐殺である。敵は勇猛で知られる広西省の山岳民族からなる部隊で、激しい抵抗を受けた。早暁から午後までかかってようやく城内に突入。大半の敵は乾季の川を渡って逃げたが、最後まで城壁の上から反撃していた勇敢な部隊が逃げ遅れた。彼らはキリスト教会の病院に逃げ込み軍服を捨てて住民にまぎれた。アメリカ人宣教師は彼らをかくまったが、言葉のなまりがあまりにも違うので、日本軍は住民の中から敵兵13名を引きずり出した。

2日後の夕刻、「これから埠頭で捕虜を斬りますから、見に来ませんか」と、部隊の者に呼ばれた。
見に行くと、13人が埠頭に座らせられていた。そのうち3人は、軍刀で首を刎ねられ、10人は銃剣で突かれ川に落とされた。
近くの小船に潜んでいた老婆まで「現場を見られたから殺せ」と中隊長が言ったが、「その前に住民に見られているのだから、老婆一人殺しても意味はない」と、私はそれだけはとめた。
私はその後すぐ平気で夕食をとった。目玉焼きなど他人の分までたっぷり食べたことをなぜか鮮明に記憶している。64年も前の夕食のメニューを覚えていること自体が異常である。捕虜虐殺を間近にみた事が、心に重くのしかかってきたのはしばらく経ってからのことで、あの日の自分の神経は普通ではなかったと思う。激しい殺し合いの中では、人間は普通ではいられなくなるものなのだ。
先日、卒寿を過ぎてなお元気な戦友を久しぶりに訪ねた。杉山照次さんは、シナ事変開戦直後に宣撫班員となった人で、その後改編された特務機関に敗戦まで勤めたベテラン機関員である。
あらためて南京戦の話を聴いた。昭和13年3月、彼は宣撫班長西田祥実大佐指揮の下、占領後3ヶ月の南京の下関(シャークワン)埠頭から、揚子江対岸の浦口(プーカオ)に向かった。
小型フェリーはおびただしい死体が浮かぶ中を掻き分けて進んだそうである。
この話には思い当たることがある。特務機関の同僚だった戦友、菅野孝禅さんが兵隊だったとき、南京戦で揚子江に突き出した潅木林に1万人近い捕虜を集め周りから火をかけて焼き殺したと言う。
火から逃れる道は河しかない。多くの人が12月の河に飛び込んだ。
3月と言えば厳寒期に沈んだ遺体がゆっくり浮き上がる頃ではないだろうか?
二つの証言は一致するように思えてならない。

日本軍が捕虜を丁重に扱っていたのは第1次世界大戦までだった。
シナ事変からは武士道精神までが失われ、捕虜虐殺は日常化していた。
小林氏は南京大虐殺は無かったとして、当時の新聞写真を並べているが、当時、新聞に報道の自由などあった筈がない。占領直後の南京市内の平和な風景こそがでっち上げである。どこの城内でも占領後しばらくは軍靴の音のみで、静寂に包まれ、街を歩く人影は全くなかった。そんな街に露店が並ぶ筈はない。そんな写真を南京平和占領の証拠にしている。

南京城内に残留していた欧米の外交官、新聞記者、宣教師たちが、日本軍の行為を打電した為、諸外国から激しい非難を浴びた。
そのニュースが国内に広がるのを恐れて厳重な報道管制を敷き、嘘の平和風景が繰り返し報道された。でっち上げ写真はいくらでもあった。
当時の写真は日本側、中国側、欧米人が取ったものなどいろいろあって、残虐性を強調するように加工されたものも多く、真偽のほどは判別しがたい。私が18年当時、南京の日本軍総司令部報道部資料室で見た、戦争初期の敵側の写真集には、『日本軍の蛮行』として明らかに手を加えて作られた写真があった。また、当時、報道部で重慶側の新聞を手に入れて読んだのだが、直接爆撃によらず、一万人近くが窒息死している。
『ヒマラヤ上空を行くわが爆撃機』という写真は、冬の日本アルプス上空で撮影された。3機編隊の写真が、数十機の大編隊に化けたりしていた。どこの国でも敵ばかりか、自国民を欺くことに懸命だったのである。

逆に小林氏は、修水渡河作戦での毒ガス写真の間違いを指摘しているが、確かに写っているのは毒ガスではなく煙幕だ。しかしその前に毒ガス弾を撃ち込んで敵を沈黙させている。
この作戦を経験してから現地除隊し特務機関に入った戦友、田中元軍曹の話によると、ガス弾を撃ち込んだ後、煙幕に護られながら上陸すると、敵は夢遊病者のように呆然と立ち尽くし全く無抵抗だったという。
毒ガス工場の従業員の後遺症問題や、中国と日本国内の埋没ガス弾による住民被害が問題になっている状況を見ても、日本軍が毒ガスを全く使用しなかったとは考えにくい。

小林氏はなぜ日本が中国大陸に攻め込んだのか、何故『戦争』ではなく『支那事変』だったのかにも全く触れていない。
昭和12年7月7日、北京郊外蘆溝橋で日中が衝突したとき、中国軍は拡大を恐れて後退したが、日本軍は動員令を発し大軍を北京に送り込んだ。しかし昭和天皇は『局地解決、戦争不拡大』をのぞまれた。宣戦布告には天皇の署名捺印が必要なので『戦争』をする訳にはいかない。だから『支那事変』だったのである。
天皇側近の西園寺公望や牧野伸顕らは、前年起きた2.26事件で暗殺の標的とされた恐怖の記憶があり、軍部に抗しきれなかった。天皇の意思に反し、戦争は事変と名を偽って長く続くことになったのである。

小林氏は朝鮮人強制連行を虚構だという。朝鮮人慰安婦も貧困のために親に売られた娼婦で、中には貯金して故郷に家を建てたものもいるなどと呆れたことを書いているが、何千人もの若い女性が、それも新婚の妻や乳児の母までが娼婦を志願するはずはない。慰安所で乳を搾る慰安婦を見たと言う話も聞いた。蚌埠の街では泥酔して泣き叫びながら憲兵に引きずられてゆく慰安婦を見た。重大な国家犯罪が行われたことは残念ながら事実なのだ。

戦争は勝たねばならん。勝つ為には何をしてもかまわん。我々は天皇陛下の御為に戦っているのだ。天皇陛下のご恩は地球より重く、お前らの命は鴻毛より軽い。しかし戦死すれば靖国の神と祭られ、天皇陛下に拝んでいただける。有り難いことではないか。上官の訓示だ。信条を疑わず前へ突き進んだ姿は、現在のイスラム過激派戦士たちと比すこともできるだろう。

当時の日本軍は、戦後育った人々には到底想像のつかないものだったと思う。小林氏は「勝っている戦争はカッコ良い」というが、勝ち続ける戦争などない。米英と戦争を始めて半年間、日本はカッコ良い戦争をした。
その後はカッコ悪いことの連続。神風特攻隊を考え出した軍首脳に至っては、最悪だった。純粋で有能な多くの若き人材を失わせた罪を、彼らはどう償っただろうか?戦後、特攻隊員の遺族達は、彼らの犠牲をどう捉えたろうか。
東京が焼け野原になり、原爆が二つも落ちるまで戦争終結をさせなかった軍首脳は敵に対してよりも、自国民に対して戦犯だった。
日本は神武天皇以来初めて外国に敗れるという屈辱を味わい、三百何十万の日本人が苦しみもだえて死に、非常に多くの他国民の命を奪った。
戦後の食糧難で餓死者を出し、戦災孤児は街を徘徊し、負傷した帰還兵は失った手足をさらしものにして街で物乞いをした。
日本はカッコ悪さの極みだった。戦争をカッコ良いなどと言って欲しくない。

昭和12年7月、昭和天皇の意思に従って、『支那事変』を思い留まっていたなら、時代はどう転換していたろうか? 欧米列強にいじめ抜かれても、国力を温存して対応する手段はあっただろう。あれほどの人材となけなしの資源を戦場に浪費しなければ、たとえ一度は戦うことになったとしても、あんなにまで惨めな敗戦はなかったと思う。この戦争は日本にとってカッコ悪さの極限だった。

今我々が平和を願うのは当然である。必要なのは戦わない勇気なのだ。
仏教では不殺生戒が基本である。キリスト教も同様に説いている。無神論者には説得力がないだろうが、相手を殺さない姿勢が我が身を守る。

以上、小林よしのり氏への反論である。

私は決して日本だけが悪者だったと言うつもりはない。当時、欧米列強の横車でアジア各地は踏みにじられ、資源の乏しい日本は身動き取れなくなる恐れがあった。しかし軍部の暴走は結果を悪くしただけではないか。もっと国益を冷静に考える賢い指導者が欲しかった。
いま、アメリカ軍の司令部機能を日本に移そうなどと検討されているが、もってのほかのことと思う。シアトルは安全になり、神奈川や東京が危険になる。それが賢い指導者の決めることだろうか?
歴史を正確に見つめ歴史に学ぶ姿勢を持たないと、国内外の戦争犠牲が無駄になってしまう。
国防はすでに情報戦になっている。過去の失敗を正確に学び、賢く国益を護りたいものである。
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 戦争論の要点を拾って、反論してみました。
 「民族差別をしないという八紘一宇の主張を日本は貫いていた」
  →反論:天照大神中心の八紘一宇には、差別観あり。
 「小さな島国日本がこんなスケールの大きい戦争をしたのは痛快だ」
  →反論:結果の惨めさ。単なる無謀です。
 「GHQにマインドコントロールされて50年経った今も日本人は洗脳されっ子のままだ。東京裁判でも問題にならなかった従軍慰安婦まで犯罪だと世界に向けて叫び始め、中国韓国は喜んでそこを突いてきた。馬鹿は朝日、毎日など洗脳されっ子のマスコミである」
  →反論:東京裁判に朝鮮の検事は居なかった。
 「南京虐殺は東京裁判で捏造された。アメリカは原爆で虐殺した市民30万人に釣り合うだけの日本の戦争犯罪が欲しかった。当時外国人ジャーナリストも大勢居たが、誰も虐殺など見ていない。日本軍入城直前の数日間、中国兵による略奪強姦放火が繰り返され日本軍の仕業と見せかけられた。日本兵に化けたシナ攪乱工作兵が大活躍して日本兵の蛮行に仕立て上げた」
  →反論:戦時中から中国側が問題にしていたものを、中国の梅(メイ)検事が提起したもの。敗残兵による略奪はどこの戦場でも起きたこと。では新聞に報道された12万人の捕虜はいったいどこへ消えたのか。
 「国家の秩序を維持させるものは権力であり暴力装置である。国内にむかっては警察、国外に向かっては軍隊、この両面の暴力装置が国に秩序を作り出す。それが平和だ。そんな暴力装置は要らないという人は、家に鍵をかけずに暮らして見ればいい」
  →反論:暴力で得た平和なんてありましたか?)
 「誠実に外国と接すれば戦争は防げるなどという人は、ただの臆病者だ」
  →反論:武力を優位に持たないと恐ろしくて生きていけない人のほうが、臆病者なのではありませんか。
 「第1次大戦後の平和主義がナチスの台頭を防げなかった。今日本はワンサイクル遅れている。世界はエゴの衝突、駆け引きと脅しの世界だ。誠実病は通用しない」
  →反論:第一次大戦後、求められたのは連合国の安全だけだった。ドイツは多額の賠償を取られ、厳しく弾圧された。その結果がナチスの台頭です。
 「戦争は外交の延長である。話し合いで折り合いのつかぬ場合やむをえない手段である。
  →反論:恐ろしく短絡的ですね。
 「人権、平等、自由、フェミニズム、反戦平和などの思想は残存左翼に操られたうす甘い市民グループのものである」
  →反論:証拠は何ですか? 

 

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